生きてりゃそのうちなんとかなる - 2012.02.14 Tue
インフルエンザが流行っているみたいですな。
それにこう寒いと風邪もあなどれない。
子どもが小さい頃は、仕事が忙しいときに限って「熱出した」って保育園から電話が来るんだな〜。最近では病児保育をやってくれる病院もあるみたいだけれど、当時どうやってしのいでいたのか、記憶も定かではない。
娘は育児休業が明けたら仕事に復帰する予定だから、孫が熱出したら、自宅で仕事することが多い私の出番だろうな。
まあでも、子ども三人おおむね健康に育ってくれた。これは本当に感謝している。
以前も書いたことがあると思うが、私は二歳の頃から小児喘息を発症して病弱な子供だった。
一、二年生の今の季節は、半分くらいしか学校行ってなかったんではないだろうか?
最初は鼻風邪をひいて、やがて、たいてい夜中に喘息の発作が出る。
息ができず、寝ているより身体を起している方が楽なので、四つん這いで布団をかぶり夜が明けるのを待つ。
当時は夜間診療なんてなかったし、今は一般的に使用される経口式の気管拡張剤もない。
ひたすら9時になって病院が開くのを待ち、親父の車で、あるいはタクシーで病院へ連れて行かれ、太い静脈注射でネオフェリンという気管拡張薬を打たれると少し楽になる。
薬をもらい、家に帰り安静にし、発作が収まるのを待つ。この繰り返し。
ステロイド系の薬のおかげで、ドーピング漬けと同じく身体はぶよぶよに太っていた。
また、発作の前は横隔膜があがり胃の圧迫が減少するのでやたら食欲が出る。
ご飯をお代りするのを見て母親は「ああ、また発作が出る前兆ではないか」とひやひやしていたそうだ。
ちょうどそのころ、門司にある養護学校が移転・新築され、定員が増やされることになった。
教育委員会を通じて、病弱のため普通学級に通学が困難な子を転校させるよう学校に通達が行ったようだ。
私と私の親にも担任から連絡があり、親はいろいろ考え、それが健康にいいならと養護学校への転校を決めた。
二年生の三学期だから今の龍之介くらいの時期だな。門司特別支援学校と名前を変えたこの学校は、今でも当時のまま建っている。
北九州市では当時小倉にも養護学校があり、こちらは肢体不自由児が通っていた。
門司の方は比較的軽度の内科系の病弱児が集められ、自然に恵まれた・・・まあはっきり言って人気のない田舎の中で隔離され、清浄な大気の中、全寮制で規則正しい生活、食事と、健康に配慮した授業で過ごしていくというものだった。
1970年、高度経済成長のただなか、日本四大工業地帯のひとつに数えられた北九州市は、特に八幡を中心に大気汚染がひどく、そういった地域から「疎開」の意味で転校してきた子も多かった。
一学年は10人前後で小学校一年生から中学校三年生まで。全校生徒は80人ほどだった。
寮は8人前後が一部屋で、担当の寮母さんとリーダーの中学生のもとで、縦割りで家族のように過ごす。
雰囲気は、昔の病院の大部屋みたいな感じで、リノリウムの床に人数分のベッドと、勉強用の机、小さなロッカー。
親から離れて過ごす低学年の子もかわいそうだが、今考えると思春期のただなか、プライバシーも無く、小さいとはいえ異性の子も同じ部屋で過ごす中学生も大変だっただろう。私の部屋は小児喘息の子ばかりが集められていた。
それまでの小学校では、自分ほど病弱な子はいないと思い、また周囲もそういう扱いだったが、ここへ来てそれは大きな間違いだったと知る。
子どもは朝から就寝まで病気の程度を表す色の異なる四種類のたすきをかけて過ごす。
紫が一番健康。以下、緑、ピンク、赤。
赤のたすきをかけているのは心臓疾患などの子が多く、後ろから「わっ!」と驚かすとそのままあの世へ行ってしまうので絶対ふざけないように、という注意が最初の日にあった。
私は緑色。発作が出なければ健常児(変な言葉だが・・・)と変わらない喘息の子らは、ここでは活発な子どもだった。
一学期間発病が無く、普通学級に戻って支障がないと判断されれば「目出度く退学」となる。
紫のたすきはその予備軍だ。
中学校二年生の藤井君という男の子が居て、運動神経がよく私たちの憧れの的だった。
先生も交じってやる草野球(ゴムボールに木のバットかなんかでやる、ホントの野球ごっこ)では大活躍で、男の子達の親分だった。
二学期の末に普通学校に戻ることになったが、おめでとうとか寂しいとか言う私らに対して「普通の中学に戻ってやっていけるかなぁ」という意味の不安な気持ちを漏らしたことを意外な気持ちで聞いたのを憶えている。
この小さな学校ではヒーローでも、普通の中学校では身体的にも、また学力的にもついていけるかどうかおぼつかないというのも厳しい現実だった。
起床し、洗顔、着替えの後、食堂で朝食。
同じ敷地内に隣接する学校へ登校。
雨が降ってなければきちんと玄関で下足に履き替え、歩いていく。通学時間1分(笑)。
昼食は食堂に戻り特別メニューの給食。
下校し放課後は自由時間。
夕食をとり、7時からは部屋で学習時間。
大広間に一台だけあるテレビは7時以降見ることができない。
隔日くらいで入浴の時間があり、これは男子と女子は別々。
大きなお風呂でふざけて寮母さんに叱られながらの入浴は楽しいひと時だった。
就寝は9時前。暗い部屋の中でひそひそ話をしながら、やがて眠りについていく。
こう書くとなんだか楽しそうな寮生活だが、もちろんここは「普通ではない子」が集められている場所だ。
喘息にはなんとなく「予感」がある。
「今夜くるかも…」。
夜、その子のベッドから「ひゅー、ひゅー」と気道が鳴る音、そして咳が聞こえてくる。
いやな音だ。そうなったらどういう具合になるのか、この部屋の子は皆知っている。
発作がひどければ寮母さんの部屋で過ごす場合もあるし、さらにひどければ深夜でも親が迎えに来る場合もあった。養護学校だからと言って、医師が常駐しているわけではなかった。
ただ、喘息の子はなんとなく「他のひどい病気に比べて、喘息は苦しいけれど死ぬ病気ではないから」という気持ちをどこかで持っていた。
しかしある日、部屋で一番仲が良かった川島くんという五年生の男の子が、夜発作を起こし帰宅して、その二日後に亡くなった。
かなり重い発作で体力を消耗していたのと、喘息の薬は気道を広げるとともに血管も広げるため、心臓に負担をかけることが原因で、トイレに立った時心臓発作を起こし亡くなったということだった。
その死を、三年生であった自分がどう理解しどう受け止めたか、よく憶えていない。
もっとも人の死なんて、50年生きた今も理解なんてできっこないが。
ただ、生死がリアルなものとして迫ってきたのは確かだった。
もちろん皆ショックを受け、泣いたが、友達を失って哀しいということと同時に、自分もまた突然人生を絶たれるかもしれないという恐怖へのふたつ意味の涙だったと思う。
川島くんのたすきは、私たちと同じ緑色だった。
三年生は入学時9人で、後で一人転校してきて合計10人。二人が喘息の関係で死に、一人が小児白血病で死んだ。三学期の終業式は7人だった。
私は本来ならばまだ普通学級に戻れる状態ではなかったが、親がかなり強硬にかけあったらしく、四年生からもと居た学校に戻ることになった。
土曜日の授業が終わるとバスで親元へ帰る。
月曜日の朝また学校(寮)へ戻るのだが、それが嫌だったのだろう日曜日の夜よく発作を起こした。
そうすれば家に居ることができたから。
そういう私を見て、親はやはり手元で育てようと考えたのだろう。
普通学校に比べどうしても遅れがちになる勉強のこともあったかもしれない。
その後幸いなことに成長とともに喘息の症状は治まり、中学生になるとすっかり通常の生活を送るようになった。あいかわらず運動は苦手だったが、持久走だけは得意だった。
息が苦しいったって喘息の発作に比べればなんてことはなかったし、また喘息になるのが怖くて煙草も吸ってなかったし…
その後普通の暮らし(でもなかったけれど・・・いろいろあったので)を送り、結婚し、長女が生まれ、アレルギーや喘息をずいぶん心配したけれどそういう兆候はなく安心した。
妊娠が分かってから授乳が終わるまで、妻が玉子絶ちをしたのも良かったのかもしれない。
いずれにせよ育児というのは、なみなみならぬ…
その翌年私の姉にも子どもが生まれ、実家の近くに住んでいたので両親は良く可愛がった。
男の子だったので、なんとなく私と重ねるところもあったようだ。
元気にすくすくと育っていた。
しかし、三歳の時、いっしょに遊んでいた姉の義母が、なんでもない場所で転ぶのを見て「どうもおかしい」と胸騒ぎがし、「大げさな」と息子夫婦に笑われながら近所の病院に連れて行った。
大きな病院で精密検査を受けることになり、診断の結果、脳に腫瘍が発見された。
胚細胞腫瘍の一種で、生まれたときにはすでに脳の細胞の中に小さな小さな癌があり、それが成長とともに大きくなり発症した。
二回ほど九大病院で開頭手術を受けたが、治癒の見込みはなかった。
当時、まだ建て替わる前の、あの暗く重い病棟の一室へ見舞に行くと、小さな身体に点滴の管を通され横たわっていた。
針は入れっぱなしだが、それでも時に刺し代えなければならない。
細く小さな腕はもうあちこちに針の跡があり、皮膚は固まり針が通らない。
「痛い、痛い、馬鹿!馬鹿!嫌だ 嫌だ」と泣き叫ぶのを看護師と医者が押さえつける。
付添をしていた姉の義母と私を見て、「申し訳ありませんが少しはずしてください」と看護師が告げる
病室の外に出て戸を閉めると、泣き声と叫び声が一層高くなる。
「助けて〜。ばあちゃん〜。助けて〜」。
姉の家は姑の家の隣に建ち、もちろん生まれたときからこの孫の面倒を見てきた。
顔中を手で多い、嗚咽が病室に漏れないように泣きながら、その場にへたり込む。
あまりにも残酷な運命を呪うその思いは、姉夫婦も、私の両親も同じだったろう。
居たたまれない気から逃れるようにその場を離れ、少し小児病棟を歩くと、コーナーのところに掲示物があった。同じように入院している子どもたちが学ぶ「院内学級」の子らの作品だった。
いろんなメッセージが鉛筆で紙に書かれており、将来の夢や、進路について、病気が治り退院したら何をしたいかなどが記されていた。
中学生だろう、医者や看護師に対する感謝の気持ちを綴った言葉もあった。
その時、ふと、小学校三年生の一年間を過ごした、あのリノリウムの床の寮の部屋が浮かび上がった。
甥は三年弱の闘病を経て、小学校入学の半年前に亡くなった。
姉は最後の方は超能力を持つという祈祷師のもとへ通ったり、効くかもしれないという高価な薬を買ったり、憔悴ぶりは傍から見ていてたまらなかったが、諦めつつも、一縷の望みがあればそれへすがらずにはいられない親心は、同じ子を持つ身としていくらかはわかるような気がした。
私の父は、私の知らないところで涙も枯れるまで泣き尽くしたのか、次第に死へと近づいていく孫の前でも意外に冷静で、亡くなってからも通夜から葬儀の間なにかと仕切りをしていた。
大変な可愛がりようだったので、私は違和感すら覚えたが。
だが最後、いよいよ出棺という時になって、ぽろぽろっ、と涙を流し、姉に「親が子をどれほど大事に思うかが、骨身に染みてわかったやろう。お前はそういう大切なお子さんたちを預かっているということをこれから忘れないようにしなさい」と泣きながら言った。
姉は小学校の教師だった。
結婚するまでは実家から通いながら働いていたので、仕事への不満や不安も時折親にこぼしていたのかもしれない。
もう20年ほど前になるので記憶もずいぶん曖昧になっているのだが、この言葉だけが耳に残り、今も忘れられない。
その父も4年ほど前に亡くなった。
甥の発病がわかる少し前に生まれた姪は、入院中、物心つく前から私の両親が面倒をみ、亡くなった兄同様よく可愛がった。絵にかいたような健康優良児で、病気で学校を休んだことが無い。皆勤賞を続けるのが快感になり、大学の講義もさぼったことがないとか。この春卒業し就職する。公務員志望で就活を行い、兄と、自分を可愛がってくれた大好きな祖父が息を引き取った公立病院に事務職として就職することになった。
姉はその後も教員を続け、しばらくしてもう一人男の子に恵まれた。うちの次男よりひとつ上で、中学では部活で野球をし、今は、私や姉、義兄が通った高校でラグビーをしている。
ブログとしてはずいぶん長い文章になってしまったが、もうあと少しだけ。
今、けがや病気で辛い思いをしている子、親御さんも多いだろう。
また、様々な悲しい思いや、様々な困難に直面している人も多いと思う。
もっと重く辛い体験をした方がおられることも知っている。
「こうした子らに比べ、健康に恵まれていることは幸せだ」と説教をしたいわけではない。
人は生まれた時から、その傍らに死神がついて仕事を始める。
どんな人でもだ。
死神の仕事が終わるのは百年以上先かもしれないし、明日かもしれない。
ただ、この世に生を受け、周囲が慈しみ、苦労をいとわず育ててくれる命を、より輝かせるために懸命に生きてほしい。
「健康になりさえすれば、他にはなにもいらない」。
この子らは、その親たちも、そう願っただろう。
その願いを、実現できているのだから。
ある人にとっての「当たり前」が、ある人にとっては「夢」であり「願い」である。
父が姉にかけた言葉だが、最近その意味が少しまた違ってわかるような気がする。親にとって孫はもちろん可愛いのだ。しかし、孫だけが可愛いわけではない。その子が親になったとしても、その子自身は、自分にとってはいつまでも我が子なのだ。自分自身の悲しみは悲しみとして「親が子を思う気持ちの重さを胸に、この悲しみに負けずお前自身もしっかり生きなさい」という、子どもへの励ましの思いだったのだろうと思う。
そしてあの言葉は、小学生ソフトに携わる自分にとっても、忘れてはいけない言葉だと思い続けている。
追記
小児がんは、今も日進月歩で治療が進歩し、当時救えなかった命も助かるケースが増えている。
また、治療の大変さと残された精神的な傷から家庭が崩壊するケースが少なくない。姉の旦那は寡黙な人だが、その後も姉と家族を良く支えてくださり、感謝している。
最近ちょっぴりしんみりした内容が多くて、一見さんには誤解されるかもしれんな?
さーて次回の「居酒屋じゅごん」は
・受験生とバレンタイン
・まーめいどさんお誕生日カウントダウン
・沐浴は腰にくる
の豪華三本建てでお送りしま〜す(予定)
それにこう寒いと風邪もあなどれない。
子どもが小さい頃は、仕事が忙しいときに限って「熱出した」って保育園から電話が来るんだな〜。最近では病児保育をやってくれる病院もあるみたいだけれど、当時どうやってしのいでいたのか、記憶も定かではない。
娘は育児休業が明けたら仕事に復帰する予定だから、孫が熱出したら、自宅で仕事することが多い私の出番だろうな。
まあでも、子ども三人おおむね健康に育ってくれた。これは本当に感謝している。
以前も書いたことがあると思うが、私は二歳の頃から小児喘息を発症して病弱な子供だった。
一、二年生の今の季節は、半分くらいしか学校行ってなかったんではないだろうか?
最初は鼻風邪をひいて、やがて、たいてい夜中に喘息の発作が出る。
息ができず、寝ているより身体を起している方が楽なので、四つん這いで布団をかぶり夜が明けるのを待つ。
当時は夜間診療なんてなかったし、今は一般的に使用される経口式の気管拡張剤もない。
ひたすら9時になって病院が開くのを待ち、親父の車で、あるいはタクシーで病院へ連れて行かれ、太い静脈注射でネオフェリンという気管拡張薬を打たれると少し楽になる。
薬をもらい、家に帰り安静にし、発作が収まるのを待つ。この繰り返し。
ステロイド系の薬のおかげで、ドーピング漬けと同じく身体はぶよぶよに太っていた。
また、発作の前は横隔膜があがり胃の圧迫が減少するのでやたら食欲が出る。
ご飯をお代りするのを見て母親は「ああ、また発作が出る前兆ではないか」とひやひやしていたそうだ。
ちょうどそのころ、門司にある養護学校が移転・新築され、定員が増やされることになった。
教育委員会を通じて、病弱のため普通学級に通学が困難な子を転校させるよう学校に通達が行ったようだ。
私と私の親にも担任から連絡があり、親はいろいろ考え、それが健康にいいならと養護学校への転校を決めた。
二年生の三学期だから今の龍之介くらいの時期だな。門司特別支援学校と名前を変えたこの学校は、今でも当時のまま建っている。
北九州市では当時小倉にも養護学校があり、こちらは肢体不自由児が通っていた。
門司の方は比較的軽度の内科系の病弱児が集められ、自然に恵まれた・・・まあはっきり言って人気のない田舎の中で隔離され、清浄な大気の中、全寮制で規則正しい生活、食事と、健康に配慮した授業で過ごしていくというものだった。
1970年、高度経済成長のただなか、日本四大工業地帯のひとつに数えられた北九州市は、特に八幡を中心に大気汚染がひどく、そういった地域から「疎開」の意味で転校してきた子も多かった。
一学年は10人前後で小学校一年生から中学校三年生まで。全校生徒は80人ほどだった。
寮は8人前後が一部屋で、担当の寮母さんとリーダーの中学生のもとで、縦割りで家族のように過ごす。
雰囲気は、昔の病院の大部屋みたいな感じで、リノリウムの床に人数分のベッドと、勉強用の机、小さなロッカー。
親から離れて過ごす低学年の子もかわいそうだが、今考えると思春期のただなか、プライバシーも無く、小さいとはいえ異性の子も同じ部屋で過ごす中学生も大変だっただろう。私の部屋は小児喘息の子ばかりが集められていた。
それまでの小学校では、自分ほど病弱な子はいないと思い、また周囲もそういう扱いだったが、ここへ来てそれは大きな間違いだったと知る。
子どもは朝から就寝まで病気の程度を表す色の異なる四種類のたすきをかけて過ごす。
紫が一番健康。以下、緑、ピンク、赤。
赤のたすきをかけているのは心臓疾患などの子が多く、後ろから「わっ!」と驚かすとそのままあの世へ行ってしまうので絶対ふざけないように、という注意が最初の日にあった。
私は緑色。発作が出なければ健常児(変な言葉だが・・・)と変わらない喘息の子らは、ここでは活発な子どもだった。
一学期間発病が無く、普通学級に戻って支障がないと判断されれば「目出度く退学」となる。
紫のたすきはその予備軍だ。
中学校二年生の藤井君という男の子が居て、運動神経がよく私たちの憧れの的だった。
先生も交じってやる草野球(ゴムボールに木のバットかなんかでやる、ホントの野球ごっこ)では大活躍で、男の子達の親分だった。
二学期の末に普通学校に戻ることになったが、おめでとうとか寂しいとか言う私らに対して「普通の中学に戻ってやっていけるかなぁ」という意味の不安な気持ちを漏らしたことを意外な気持ちで聞いたのを憶えている。
この小さな学校ではヒーローでも、普通の中学校では身体的にも、また学力的にもついていけるかどうかおぼつかないというのも厳しい現実だった。
起床し、洗顔、着替えの後、食堂で朝食。
同じ敷地内に隣接する学校へ登校。
雨が降ってなければきちんと玄関で下足に履き替え、歩いていく。通学時間1分(笑)。
昼食は食堂に戻り特別メニューの給食。
下校し放課後は自由時間。
夕食をとり、7時からは部屋で学習時間。
大広間に一台だけあるテレビは7時以降見ることができない。
隔日くらいで入浴の時間があり、これは男子と女子は別々。
大きなお風呂でふざけて寮母さんに叱られながらの入浴は楽しいひと時だった。
就寝は9時前。暗い部屋の中でひそひそ話をしながら、やがて眠りについていく。
こう書くとなんだか楽しそうな寮生活だが、もちろんここは「普通ではない子」が集められている場所だ。
喘息にはなんとなく「予感」がある。
「今夜くるかも…」。
夜、その子のベッドから「ひゅー、ひゅー」と気道が鳴る音、そして咳が聞こえてくる。
いやな音だ。そうなったらどういう具合になるのか、この部屋の子は皆知っている。
発作がひどければ寮母さんの部屋で過ごす場合もあるし、さらにひどければ深夜でも親が迎えに来る場合もあった。養護学校だからと言って、医師が常駐しているわけではなかった。
ただ、喘息の子はなんとなく「他のひどい病気に比べて、喘息は苦しいけれど死ぬ病気ではないから」という気持ちをどこかで持っていた。
しかしある日、部屋で一番仲が良かった川島くんという五年生の男の子が、夜発作を起こし帰宅して、その二日後に亡くなった。
かなり重い発作で体力を消耗していたのと、喘息の薬は気道を広げるとともに血管も広げるため、心臓に負担をかけることが原因で、トイレに立った時心臓発作を起こし亡くなったということだった。
その死を、三年生であった自分がどう理解しどう受け止めたか、よく憶えていない。
もっとも人の死なんて、50年生きた今も理解なんてできっこないが。
ただ、生死がリアルなものとして迫ってきたのは確かだった。
もちろん皆ショックを受け、泣いたが、友達を失って哀しいということと同時に、自分もまた突然人生を絶たれるかもしれないという恐怖へのふたつ意味の涙だったと思う。
川島くんのたすきは、私たちと同じ緑色だった。
三年生は入学時9人で、後で一人転校してきて合計10人。二人が喘息の関係で死に、一人が小児白血病で死んだ。三学期の終業式は7人だった。
私は本来ならばまだ普通学級に戻れる状態ではなかったが、親がかなり強硬にかけあったらしく、四年生からもと居た学校に戻ることになった。
土曜日の授業が終わるとバスで親元へ帰る。
月曜日の朝また学校(寮)へ戻るのだが、それが嫌だったのだろう日曜日の夜よく発作を起こした。
そうすれば家に居ることができたから。
そういう私を見て、親はやはり手元で育てようと考えたのだろう。
普通学校に比べどうしても遅れがちになる勉強のこともあったかもしれない。
その後幸いなことに成長とともに喘息の症状は治まり、中学生になるとすっかり通常の生活を送るようになった。あいかわらず運動は苦手だったが、持久走だけは得意だった。
息が苦しいったって喘息の発作に比べればなんてことはなかったし、また喘息になるのが怖くて煙草も吸ってなかったし…
その後普通の暮らし(でもなかったけれど・・・いろいろあったので)を送り、結婚し、長女が生まれ、アレルギーや喘息をずいぶん心配したけれどそういう兆候はなく安心した。
妊娠が分かってから授乳が終わるまで、妻が玉子絶ちをしたのも良かったのかもしれない。
いずれにせよ育児というのは、なみなみならぬ…
その翌年私の姉にも子どもが生まれ、実家の近くに住んでいたので両親は良く可愛がった。
男の子だったので、なんとなく私と重ねるところもあったようだ。
元気にすくすくと育っていた。
しかし、三歳の時、いっしょに遊んでいた姉の義母が、なんでもない場所で転ぶのを見て「どうもおかしい」と胸騒ぎがし、「大げさな」と息子夫婦に笑われながら近所の病院に連れて行った。
大きな病院で精密検査を受けることになり、診断の結果、脳に腫瘍が発見された。
胚細胞腫瘍の一種で、生まれたときにはすでに脳の細胞の中に小さな小さな癌があり、それが成長とともに大きくなり発症した。
二回ほど九大病院で開頭手術を受けたが、治癒の見込みはなかった。
当時、まだ建て替わる前の、あの暗く重い病棟の一室へ見舞に行くと、小さな身体に点滴の管を通され横たわっていた。
針は入れっぱなしだが、それでも時に刺し代えなければならない。
細く小さな腕はもうあちこちに針の跡があり、皮膚は固まり針が通らない。
「痛い、痛い、馬鹿!馬鹿!嫌だ 嫌だ」と泣き叫ぶのを看護師と医者が押さえつける。
付添をしていた姉の義母と私を見て、「申し訳ありませんが少しはずしてください」と看護師が告げる
病室の外に出て戸を閉めると、泣き声と叫び声が一層高くなる。
「助けて〜。ばあちゃん〜。助けて〜」。
姉の家は姑の家の隣に建ち、もちろん生まれたときからこの孫の面倒を見てきた。
顔中を手で多い、嗚咽が病室に漏れないように泣きながら、その場にへたり込む。
あまりにも残酷な運命を呪うその思いは、姉夫婦も、私の両親も同じだったろう。
居たたまれない気から逃れるようにその場を離れ、少し小児病棟を歩くと、コーナーのところに掲示物があった。同じように入院している子どもたちが学ぶ「院内学級」の子らの作品だった。
いろんなメッセージが鉛筆で紙に書かれており、将来の夢や、進路について、病気が治り退院したら何をしたいかなどが記されていた。
中学生だろう、医者や看護師に対する感謝の気持ちを綴った言葉もあった。
その時、ふと、小学校三年生の一年間を過ごした、あのリノリウムの床の寮の部屋が浮かび上がった。
甥は三年弱の闘病を経て、小学校入学の半年前に亡くなった。
姉は最後の方は超能力を持つという祈祷師のもとへ通ったり、効くかもしれないという高価な薬を買ったり、憔悴ぶりは傍から見ていてたまらなかったが、諦めつつも、一縷の望みがあればそれへすがらずにはいられない親心は、同じ子を持つ身としていくらかはわかるような気がした。
私の父は、私の知らないところで涙も枯れるまで泣き尽くしたのか、次第に死へと近づいていく孫の前でも意外に冷静で、亡くなってからも通夜から葬儀の間なにかと仕切りをしていた。
大変な可愛がりようだったので、私は違和感すら覚えたが。
だが最後、いよいよ出棺という時になって、ぽろぽろっ、と涙を流し、姉に「親が子をどれほど大事に思うかが、骨身に染みてわかったやろう。お前はそういう大切なお子さんたちを預かっているということをこれから忘れないようにしなさい」と泣きながら言った。
姉は小学校の教師だった。
結婚するまでは実家から通いながら働いていたので、仕事への不満や不安も時折親にこぼしていたのかもしれない。
もう20年ほど前になるので記憶もずいぶん曖昧になっているのだが、この言葉だけが耳に残り、今も忘れられない。
その父も4年ほど前に亡くなった。
甥の発病がわかる少し前に生まれた姪は、入院中、物心つく前から私の両親が面倒をみ、亡くなった兄同様よく可愛がった。絵にかいたような健康優良児で、病気で学校を休んだことが無い。皆勤賞を続けるのが快感になり、大学の講義もさぼったことがないとか。この春卒業し就職する。公務員志望で就活を行い、兄と、自分を可愛がってくれた大好きな祖父が息を引き取った公立病院に事務職として就職することになった。
姉はその後も教員を続け、しばらくしてもう一人男の子に恵まれた。うちの次男よりひとつ上で、中学では部活で野球をし、今は、私や姉、義兄が通った高校でラグビーをしている。
ブログとしてはずいぶん長い文章になってしまったが、もうあと少しだけ。
今、けがや病気で辛い思いをしている子、親御さんも多いだろう。
また、様々な悲しい思いや、様々な困難に直面している人も多いと思う。
もっと重く辛い体験をした方がおられることも知っている。
「こうした子らに比べ、健康に恵まれていることは幸せだ」と説教をしたいわけではない。
人は生まれた時から、その傍らに死神がついて仕事を始める。
どんな人でもだ。
死神の仕事が終わるのは百年以上先かもしれないし、明日かもしれない。
ただ、この世に生を受け、周囲が慈しみ、苦労をいとわず育ててくれる命を、より輝かせるために懸命に生きてほしい。
「健康になりさえすれば、他にはなにもいらない」。
この子らは、その親たちも、そう願っただろう。
その願いを、実現できているのだから。
ある人にとっての「当たり前」が、ある人にとっては「夢」であり「願い」である。
父が姉にかけた言葉だが、最近その意味が少しまた違ってわかるような気がする。親にとって孫はもちろん可愛いのだ。しかし、孫だけが可愛いわけではない。その子が親になったとしても、その子自身は、自分にとってはいつまでも我が子なのだ。自分自身の悲しみは悲しみとして「親が子を思う気持ちの重さを胸に、この悲しみに負けずお前自身もしっかり生きなさい」という、子どもへの励ましの思いだったのだろうと思う。
そしてあの言葉は、小学生ソフトに携わる自分にとっても、忘れてはいけない言葉だと思い続けている。
追記
小児がんは、今も日進月歩で治療が進歩し、当時救えなかった命も助かるケースが増えている。
また、治療の大変さと残された精神的な傷から家庭が崩壊するケースが少なくない。姉の旦那は寡黙な人だが、その後も姉と家族を良く支えてくださり、感謝している。
最近ちょっぴりしんみりした内容が多くて、一見さんには誤解されるかもしれんな?
さーて次回の「居酒屋じゅごん」は
・受験生とバレンタイン
・まーめいどさんお誕生日カウントダウン
・沐浴は腰にくる
の豪華三本建てでお送りしま〜す(予定)
途中経過報告 - 2010.09.09 Thu
じゅごん「いよいよ来月からたばこ値上げか〜・・ひと箱410円(マイルドセブン)」
天使「これを機にやめちゃいましょうよ・・・410円っていったら、発泡酒何本飲める?」
悪魔「いやいや・・・たかだか110円。ジョージア一本より安いやないけ〜」
じゅごん「一日ひと箱として、ひと月12000円超か・・・orz」
天使「でしょう〜?一年で、約15万円よ!じゅごんが大好きなハワイにいけるじゃないの!」
悪魔「ほほう・・・そんなせこい理由で、あの嫌煙権とやらに屈服するわけか?」
じゅごん「嫌煙権は・・・嫌い」
天使「でも、受動喫煙で被害を受けている人も多いし、実際にたばこは百害あって一利なし!肺がんなどの原因にもなるのよ!」
悪魔「じゅごんはリビングではタバコは吸わなくて換気扇の下や玄関の外で吸ってるし、歩きたばこも我慢しているし、携帯灰皿も常時持っているぢゃないか!」
じゅごん「喫茶店や、レストランではほとんど禁煙で、肩身は狭いが、たしかに人に迷惑をかけない吸い方には気をつけているけど・・・」
天使「だったら、いっそやめてしまえば、健康には絶対いいし、ストレスからも解放されるわよ!第一、じゅごんは高血圧で、お薬を飲んでいるでしょう?禁煙すれば高血圧も改善されるかもよ!」
悪魔「高血圧ってったって、下が90をちょっと上回るぐらいなんだから・・・一服でストレスから解放される快感を禁じる権利なんて誰にもないね!」
じゅごん「俺はどうすればいいんだ?うぉぉっぉ〜!」
天使「すぱっと!禁煙!」
悪魔「すぱっと!喫煙!」
今月末までには結論を・・・・
天使「これを機にやめちゃいましょうよ・・・410円っていったら、発泡酒何本飲める?」
悪魔「いやいや・・・たかだか110円。ジョージア一本より安いやないけ〜」
じゅごん「一日ひと箱として、ひと月12000円超か・・・orz」
天使「でしょう〜?一年で、約15万円よ!じゅごんが大好きなハワイにいけるじゃないの!」
悪魔「ほほう・・・そんなせこい理由で、あの嫌煙権とやらに屈服するわけか?」
じゅごん「嫌煙権は・・・嫌い」
天使「でも、受動喫煙で被害を受けている人も多いし、実際にたばこは百害あって一利なし!肺がんなどの原因にもなるのよ!」
悪魔「じゅごんはリビングではタバコは吸わなくて換気扇の下や玄関の外で吸ってるし、歩きたばこも我慢しているし、携帯灰皿も常時持っているぢゃないか!」
じゅごん「喫茶店や、レストランではほとんど禁煙で、肩身は狭いが、たしかに人に迷惑をかけない吸い方には気をつけているけど・・・」
天使「だったら、いっそやめてしまえば、健康には絶対いいし、ストレスからも解放されるわよ!第一、じゅごんは高血圧で、お薬を飲んでいるでしょう?禁煙すれば高血圧も改善されるかもよ!」
悪魔「高血圧ってったって、下が90をちょっと上回るぐらいなんだから・・・一服でストレスから解放される快感を禁じる権利なんて誰にもないね!」
じゅごん「俺はどうすればいいんだ?うぉぉっぉ〜!」
天使「すぱっと!禁煙!」
悪魔「すぱっと!喫煙!」
今月末までには結論を・・・・
夏休みの課題図書 - 2010.08.03 Tue
お盆進行の原稿入稿が終了し、ひと段落・・・
「夏休み」とはいかないが、本を読もう、とか思う
ずいぶん前、千早西クラブログのほうで、重松清の卒業ホームランを紹介したことがある
結構この記事反響があって、「さっそく買って読みました」という人多かったんですよね。
当時は福岡少年ソフト界で、ブログをやってる人はまだ少なくて
私と、やまさきさんとえっちゃんママさんくらいだったと思う。
この作品の刊行が1999年の11月
何度か直木賞候補になったのち、重松清は翌年の「ビタミンF」で直木賞受賞
彼の最高傑作であると私が思う「流星ワゴン」が2002年
その合間、21世紀最初の作品集として2001年に刊行された「口笛吹いて」を今回は紹介したいな、と思います。
重松ファンにとっては「何をいまさら」という話だろうし、彼の作風が嫌いな人にとっては「けっ!」てなもんでしょう・・・
ただ、この時期の彼の作品が、私個人としてはとても好きなんですよね。
最近は、ちょっと「あざとい」というか、「みえみえ狙ってる」という雰囲気が無きにしも非ずで・・・
ちょうどバブル崩壊後の「失われた10年」の後期に書かれたこれらの作品(5作の短編小説からなる)。
当時の政治状況も、細川政権の成立、自社連立政権、そして「自民党をぶっ壊す」と言って登場した小泉首相(2001年4月就任)。「勝ち組」「負け組」という言葉が人口に膾炙した世相・・・
なんとなくリーマンショック後の今の日本の状況と似ているんですよね・・・
そういう意味では、改めて新鮮に読まれるタイミングかも、と思うわけです。
「口笛吹いて」は、学童野球でレギュラー争いをしている6年生を持つ父親が主人公。彼に口笛の吹きかたを教えてくれた「憧れのお兄ちゃん」、元球児のヒーロー、晋ちゃんがある日彼の前に現れるが・・・
「タンタン」「春になれば」「グッド・ラック」には、共通して「学校の教師であり親である」というテーマがある。
「かたつむり疾走」は、リストラされた父と高校生の子の関係が・・・
どの作品にも、明快な「解決策」や「大団円」はない・・・
その時代を切り取り、提示し、人生の断片が描かれる。
重松清は私と同世代(2つ下)、だから当時は40歳手前。
これらの作品に出てくる父親、母親たちも、それに近い年齢です。
だから、今小学生や中学生の子を持つ、「私より若い世代」の年齢のお父さん、お母さんにとって
より身近な問題を多く孕んでいるかもしれない。
あまり立ち入った「解説」「紹介」は控えますが・・・
文春文庫、620円(税込)
短編集なので、気軽に読み始めることができるし
この夏、ソフトボーラー父、母に“お勧めの一冊”、としてご紹介します。
「夏休み」とはいかないが、本を読もう、とか思う
ずいぶん前、千早西クラブログのほうで、重松清の卒業ホームランを紹介したことがある
結構この記事反響があって、「さっそく買って読みました」という人多かったんですよね。
当時は福岡少年ソフト界で、ブログをやってる人はまだ少なくて
私と、やまさきさんとえっちゃんママさんくらいだったと思う。
この作品の刊行が1999年の11月
何度か直木賞候補になったのち、重松清は翌年の「ビタミンF」で直木賞受賞
彼の最高傑作であると私が思う「流星ワゴン」が2002年
その合間、21世紀最初の作品集として2001年に刊行された「口笛吹いて」を今回は紹介したいな、と思います。
重松ファンにとっては「何をいまさら」という話だろうし、彼の作風が嫌いな人にとっては「けっ!」てなもんでしょう・・・
ただ、この時期の彼の作品が、私個人としてはとても好きなんですよね。
最近は、ちょっと「あざとい」というか、「みえみえ狙ってる」という雰囲気が無きにしも非ずで・・・
ちょうどバブル崩壊後の「失われた10年」の後期に書かれたこれらの作品(5作の短編小説からなる)。
当時の政治状況も、細川政権の成立、自社連立政権、そして「自民党をぶっ壊す」と言って登場した小泉首相(2001年4月就任)。「勝ち組」「負け組」という言葉が人口に膾炙した世相・・・
なんとなくリーマンショック後の今の日本の状況と似ているんですよね・・・
そういう意味では、改めて新鮮に読まれるタイミングかも、と思うわけです。
「口笛吹いて」は、学童野球でレギュラー争いをしている6年生を持つ父親が主人公。彼に口笛の吹きかたを教えてくれた「憧れのお兄ちゃん」、元球児のヒーロー、晋ちゃんがある日彼の前に現れるが・・・
「タンタン」「春になれば」「グッド・ラック」には、共通して「学校の教師であり親である」というテーマがある。
「かたつむり疾走」は、リストラされた父と高校生の子の関係が・・・
どの作品にも、明快な「解決策」や「大団円」はない・・・
その時代を切り取り、提示し、人生の断片が描かれる。
重松清は私と同世代(2つ下)、だから当時は40歳手前。
これらの作品に出てくる父親、母親たちも、それに近い年齢です。
だから、今小学生や中学生の子を持つ、「私より若い世代」の年齢のお父さん、お母さんにとって
より身近な問題を多く孕んでいるかもしれない。
あまり立ち入った「解説」「紹介」は控えますが・・・
文春文庫、620円(税込)
短編集なので、気軽に読み始めることができるし
この夏、ソフトボーラー父、母に“お勧めの一冊”、としてご紹介します。
夏の高校野球 - 2010.07.28 Wed
全国で続々と高校野球の県代表が決まっていきますね!
しかしもちろん甲子園だけが高校野球ではありません。
4000校を超える野球部のひとつひとつに、涙と汗があり、感動があります。
「千早西クラブログ」のほうでリンクさせていただいている
少年野球コーチさんの今日のブログで
茨城県の水城(すいじょう)高校の甲子園出場にちなんで
昔書いたこの記事を紹介されていました。
そうですね。定時制や通信制に通う高校生にとっても、一生に3度だけの「夏の大会」なんです・・・
ヤフー知恵袋のこちらのトピック
それからwikiさんのこちらの項目などもお時間がある方はご参照ください!(ちなみにこの高校、今年は1回戦延長サヨナラ負けだったそうです)
そして今日から宮崎県大会も観客が応援できるようになりました!
まさに夏!日本の夏!
しかしもちろん甲子園だけが高校野球ではありません。
4000校を超える野球部のひとつひとつに、涙と汗があり、感動があります。
「千早西クラブログ」のほうでリンクさせていただいている
少年野球コーチさんの今日のブログで
茨城県の水城(すいじょう)高校の甲子園出場にちなんで
昔書いたこの記事を紹介されていました。
そうですね。定時制や通信制に通う高校生にとっても、一生に3度だけの「夏の大会」なんです・・・
ヤフー知恵袋のこちらのトピック
それからwikiさんのこちらの項目などもお時間がある方はご参照ください!(ちなみにこの高校、今年は1回戦延長サヨナラ負けだったそうです)
そして今日から宮崎県大会も観客が応援できるようになりました!
まさに夏!日本の夏!
ソマリア - 2010.07.08 Thu
突然 FIFAワールドカップ南アフリカ大会のテーマソングをアップして・・
「じゅごんはかぶれやすいからな〜」とお思いのあなた・・・
はい、その通りです(笑)
ただ、ちょっとこの曲をアップした理由をお聞きください。
この「Wavin' Flag」
うたっているのは
K'naanという歌手です。
出身はソマリア・・・
ソマリアという国は、アフリカ大陸の東
いわゆる「アフリカの角」という場所に位置しています。
イタリア、イギリスの植民地支配を経て
第二次大戦後、独立を果たしますが・・・・
1991年(ベルリンの壁崩壊、ソ連邦解体後ですね)
それまでの政府が反政府勢力に敗退し
国連にPKO部隊の派兵を要請するのですが
アメリカを中心としたPKO部隊も散々な敗退で撤退・・・・
以後、内乱状態が続き、いまにいたるまで「無政府状態」です。
ソマリアを根拠にした「海賊」が猛威をふるい
海上自衛隊が派遣されていることも、ご存知かと思います。
そんな国から、14歳でアメリカに渡ったK'naaan
彼が「自由という旗をなびかせろ」と歌うこの歌には
深い背景があると思うのです。
アフリカ大陸で初めて開催されるWカップ・・・
南アフリカだって、ほんのつい最近(1994年)まで「アパルトヘイト」(人種隔離政策)が温存され
デ・クラートとネルソン・マンデラによって、融和がはかられた国です。
さて、そんなソマリア・・・
国が分裂、内戦状態、無政府(国連に承認された政府がない)という状態で
「サッカーどころではないな」とお思いでしょう。
ところがどっこい!
ちゃんと「サッカーソマリア代表」は今回のWカップ予選にも出場し
アンダー17チームなども送り出しています。
サッカー、スポーツが持つ、こんな一面。
When I get older, I will be stronger
They'll call me freedom, just like a wavin flag
And then it goes back, and then it goes back
And then it goes back , and then it goes ...
と歌う K'naanの気持ち
(歌詞はWカップ用にアレンジされていますが)
そんなことに思いをはせながら
決勝戦を楽しみに待ちたいと思います。
「じゅごんはかぶれやすいからな〜」とお思いのあなた・・・
はい、その通りです(笑)
ただ、ちょっとこの曲をアップした理由をお聞きください。
この「Wavin' Flag」
うたっているのは
K'naanという歌手です。
出身はソマリア・・・
ソマリアという国は、アフリカ大陸の東
いわゆる「アフリカの角」という場所に位置しています。
イタリア、イギリスの植民地支配を経て
第二次大戦後、独立を果たしますが・・・・
1991年(ベルリンの壁崩壊、ソ連邦解体後ですね)
それまでの政府が反政府勢力に敗退し
国連にPKO部隊の派兵を要請するのですが
アメリカを中心としたPKO部隊も散々な敗退で撤退・・・・
以後、内乱状態が続き、いまにいたるまで「無政府状態」です。
ソマリアを根拠にした「海賊」が猛威をふるい
海上自衛隊が派遣されていることも、ご存知かと思います。
そんな国から、14歳でアメリカに渡ったK'naaan
彼が「自由という旗をなびかせろ」と歌うこの歌には
深い背景があると思うのです。
アフリカ大陸で初めて開催されるWカップ・・・
南アフリカだって、ほんのつい最近(1994年)まで「アパルトヘイト」(人種隔離政策)が温存され
デ・クラートとネルソン・マンデラによって、融和がはかられた国です。
さて、そんなソマリア・・・
国が分裂、内戦状態、無政府(国連に承認された政府がない)という状態で
「サッカーどころではないな」とお思いでしょう。
ところがどっこい!
ちゃんと「サッカーソマリア代表」は今回のWカップ予選にも出場し
アンダー17チームなども送り出しています。
サッカー、スポーツが持つ、こんな一面。
When I get older, I will be stronger
They'll call me freedom, just like a wavin flag
And then it goes back, and then it goes back
And then it goes back , and then it goes ...
と歌う K'naanの気持ち
(歌詞はWカップ用にアレンジされていますが)
そんなことに思いをはせながら
決勝戦を楽しみに待ちたいと思います。




