幻の甲子園

前回に引き続いて高校野球ネタ

5年前・・・福岡市の少年ソフトボール界を席巻した
くそ強いチームがあった・・・

その名は香椎下原クラブ・・

ピザクック杯、福岡少年の2大会を筆頭に
数々の大会で優勝
西日本大会では準優勝

二人のエース級ピッチャーと重量打線・・・
まさに難攻不落の「東の要塞」であった・・・

その時の主力選手の一人、今も下原の監督を務めるY監督のご子息が在籍する長崎日大
そして、まさに司令塔として八面六臂の活躍をし、卒業後はお父さんの転勤で大阪に引っ越しし、強豪オール牧方ボーイズの主将を務め、名門天理高校に進んだD君・・・

見事両校は甲子園出場を決めたが、残念ながら両者とも故障中とのこと・・・

せっかくの晴れ舞台に、けがで活躍できないのは残念だろうが、まだ2年生。
くさらず、焦らず(といっても焦るだろうけど)、甲子園の雰囲気に浸って欲しいな・・・





92回目を迎える「夏の甲子園」
この甲子園が途絶えた時期がある
そう、第二次世界大戦中の昭和16年~昭和20年

戦争のため、大好きな野球をあきらめなければならなかった球児たち・・・

だが、実は昭和17年「幻の甲子園大会」が開催されていたことをご存じだろうか?

早坂隆著『幻の甲子園』にそのことが書かれている。
以下、同著の案内文より

昭和十七年六月五日に始まったミッドウェー海戦大敗直後の六月二十四日、文部省が前年中止になっていた甲子園大会の開催を知らせる通達を出した。
だが、大会の主催者は大阪朝日新聞社ではなく文部省だった。
「一片の通牒のほか何等委曲を盡すことなかりし当局の態度に対しては、遺憾を禁ぜざるものがある」(「朝日新聞」七月十二日付社告)。
今も朝日新聞社の記録では「昭和十六年~二十年戦争で中止」となっている甲子園大会が、なぜ昭和十七年夏だけ文部省によって開催されたのか?戦意高揚のため特異な戦時ルールが適用され、「選手」としてではなく「選士」として出場し選手交代も認められず、大会後は「兵士」として戦場へ向かった多くの球児たちの数奇な運命を辿る傑作ノンフィクション。



高校野球ができる「平和な時代」を当たり前と思わず、その中でプレー、そして応援できる幸せを、私たちはもう一度かみしめる必要があるだろう。

ちなみに・・・その香椎下原の全国大会出場を阻み、そして第1回ラストトライアル「伝説の決勝戦」で打ち破ったのが、キャプテンこーきが率いる千早西クラブ10期生。のちに彼らは、中体連福岡県大会を制覇することとなる・・・(自慢はいってますか?)

それと、甲子園出場の西短の二塁手は、美和台コンドルスさん出身らしい。がんばれ~!
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