自分でも何を言ってるかわからない世迷い言

人は誰しも「最小の努力で最大の結果」を求める。なるべく「無駄なく効率的なやり方で目標に達したい」と考えるだろう。

例えば山の頂に登りたいと思えば、最短ルートというのがある。ただしそれは必ずしも直登ルートとは限らない。山の一方が断崖絶壁、反対側がなだらかな斜面だとすれば、断崖絶壁の方が距離は短いが、単位時間あたりに要するエネルギーは大きく(キツイ)、また転落するなどのリスクもある。「急がば回れ」でなだらかな坂をダラダラ登って行く方が結果的に速かった、というケースもある。

「最小にして最短」に加え「合理的な方法」というのを、少しはモノを考える人間であれば求めることになる。

もっとも物理的な法則によれば、ある重量のものをある高さに移動させるエネルギー(仕事量)は等しい。高校の物理で習う。ただし付け加えればこれには、高校の物理のテストで必ず目にする前提条件を伴う。「ただし摩擦はないものとする」。

(「ただし」が多いね)

さらにさらに「歩くなんてまどろっこしい。ヘリコプターで行けば良い」という人もいるだろう。中には「どうせなら大変でも頂上まで自動車の道路をつくれば、後から登る人も楽して登れるよ」「道路が無理ならロープウェイを」などなど、山の頂に至る様々な「合理的な」(楽な)方法を発案し、あるいは実現する人も出てくるだろう。

「そもそもなんで山の頂に登らなければならないんだ?」と大前提をひっくり返す人も出てくる。必ずしも「山を登ること」自体を否定せずとも「麓をウロウロ歩く方がむしろ楽しいじゃね?有益なんじゃね?」というスタンスをとる人が必ずいる。

山がひとつあったとして、その登り方はかように千差万別。どっからどう登ろうが、途中で休もうが、登りかけて一旦引き返してまた登ろうが、直線で登ろうが、らせん状で登ろうが、途中で迷おうが、「頂上についてしまえば」良い。頂上に着くこと自体を否定する人もいるわけだが・・・。
世間一般的には、この頂上に着いた人を「成功者」として評価する。

過去の登山者たちのケースから、だいたい「こうすれば安全・高確率で頂上に着けますよ」というルートが経験上蓄積されてくる。「まずは歴史に学びましょう」という優等生的なヤツもいる。「人の歩いた道など面白くない。俺は他人がやらなかったルートに挑戦する!」というヤツも出てくる。
後者はたとえ頂にたどり着けなかったにしろ「新たな可能性に挑んだチャレンジャー」として一定の評価を得る場合もある。

頂上にたどり着いたらたどり着いたで、そこから見える別の山の頂に心を奪われ「次はあそこに登ろう」という人もいる。逆に、その山の頂上の魅力に魅せられ「次は別のルートで」「同じルートをもっと効率よく」「ちょっと変化をつけて」もう一度登ってみようという人がそれぞれいるだろう。

結局のところ人の営みのなかで「どれが正解」「どれが正しい」と言うことができるのだろうか?
あさっての方向に進んでいたり、危険な場所に進もうとしている人に「そっちは違いますよ」「そっちは危ないですよ」と言うことは正しいような気もするが、「100%無駄なこと」とも言えない気もする。「大きなお世話」かもしれない。

私の今のスタンスとしては「どれも、あり」

「こういう方法で、こういうやり方で、あそこに到達したい」という仲間と一緒に登るのも楽しいし、単独で自由気ままに登るのも楽しい。
他人が遭難していたら助けたいとは思うが、全部が全部救助できるわけでもない。逆の立場で、助けられる場合もあるし、そうでない場合もある。

とどのつまり「この山に登りたい」という人たちと、右往左往、悪戦苦闘しながら、あえぎあえぎ登っていることに楽しさを感じるかどうか、ということだろう。楽しいよりもむしろ苦しいが、それでも歩みを止めるのはイヤ、という人もいるだろう。
「誰が一番最初に頂についたか」ではなく、各人各様の歩みそれぞれが、個人という限られた肉体と限られた時間だけでは経験できない、もっと多様なパターンを教えてくれる。

「無駄な努力」もまた総体としてみれば、「偉大な成果」なのかもしれない。

「無駄な努力」が積もり積もってできた山の頂上を、また別な人が目指すかもしれない。


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