ソフトに全く関係ない話で恐縮です

When(いつ) where(どこで) who(誰が) what(何を) why(なぜ) how(どのように)

よく文章要素の基本として示される「5W1H」である。

昨夜家に帰ってNHKの『クローズアップ現代』を観ていたら
インターネットと不況による影響で広告収入が激減したアメリカの新聞(地方紙)が次々に廃刊しているそうだ。
日本の場合、広告収入の占める割合が平均して約3割と、アメリカの新聞より低く、宅配制度による購読料が支えているため、まだ猶予があるといった内容だったが、いずれにしても新聞の経営基盤が脅かされていることは疑いない。

夕刊などはどこも悲惨な状況で、廃止したいのはやまやまだが他紙がしないからできないという竦みあいの状況だし、実際に廃止した地方紙もある。

「折り込みチラシ」というエリアマーケティングに特化した経営資源を持っているので新聞販売店はまだ飯が食えているが、これがなければ、全国紙、地方紙問わず、新聞ジャーナリズムはもはや「砂上の楼閣」だ。しかも土台にはひたひたと波が押し寄せている。

私の子どもたちもそうだが、就職活動に必要・・・といった理由でもない限り若者は新聞を読まないし、ましてや買わない。ニュースはTVかネットで拾い読み。TVの登場は新聞の経営を脅かすかと思われたが、新聞で一番良く読まれるのが終面のTV番組欄だった、ということに象徴されるように、新聞とTVは(経営的にも)共存してきた。現在も、新聞をただ映して読んでいるだけというTV番組のなんと多いことか!

「インテリが作ってヤクザが売る」と揶揄されてきた新聞だが、とにもかくにもマス広告と個別宅配制度に依るビジネスモデルが成立してきたおかげで、ジャーナリズムの基礎となる、記者たちの取材活動が保証されてきたわけだ。

一流のプロという矜持を持っている記者であるならば、まず事実の裏をとることになにより神経を使う。そして、そこから先、記者の力量が最も試されるのが「なぜ(why)」という部分だ。ここをいかに深堀出来るかで、そのニュースの持つ重みが出てくる。
「犬が人間を噛んでも記事にならないが、人間が犬を噛めば記事になる」とよく言われる。確かに希少な事実はそれだけでニュース性を持つが、しかし「なぜその人間は犬を噛んだのか」という検証(事実に基づいた)こそが、主観的な憶測や推理によるあれやこれやの評論よりも、ジャーナリズムが果たすべき第一の使命なのだ。

だが、昨今の新聞記事を読む限りに置いては、この「なぜ」を追求する姿勢が希薄になっているのではないかという気がする。安易な「識者のコメント」でお茶を濁したり、ありきたりな憶測で済まそうという雰囲気が伝わってくる。
鳩山総理の献金問題も、面白おかしく「贈与税対策のための『子ども手当』」などと揶揄するだけでなく、どのような意図と目的によってそれが行われ、また明らかになったのかをジャーナリズムは伝える責任がある。「それは検察と裁判所の役割だ」というのでは、責任放棄に他ならない。

私自身の自戒を込めてだが、往々にしてネットに「書き流す」文章のたぐいは、WhyやHowが抜けた「4W」の文章になってしまう傾向がある。「いつ誰がどこで何をして~・・・面白かった!腹が立った!」。まあ素人の文章としては別に悪くはない(ケースによっては悪い場合もあるが)のだが、プロの発信する報道は、少なくともそのレベルに留まっては欲しくない。

確かにオウム事件からこっち、理由が不可解な事件が増えてきた。通り魔殺人などがその典型だが、しかしそこにはやはりなんらかの社会的、あるいは個人的背景があり、そうした「時代性」を感じさせるからこそ、人々は事件に関心を持つのだろう。そこをえぐりとっていく努力をしない限り、新聞に未来はないと思う。翻ってそれは、それを支える読者の側の問題でもあるのだが。

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