4月の魚と言えば鰆(さわら)だよね!

昨日の「いいとも最終回」を見て(正確には録画を)、作家で評論家の中森明夫がツイッターに「80年代から始まったテレビ的ななにかが終わったのを感じた」と書いていて、それに私も同感だった。ある世代以上の多くの人がそう感じたのではないだろうか。

ただ私は最近、「テレビ的な、なにか」の終焉と同時に「インターネット的な、なにか」が終わろうとしているのを痛切に感じている。
日本でのインターネットの普及は、商用利用解禁の1995年に、時を同じくしてWindows95が発売された時から始まり、1997年あたりから広まっていったと思う。
私自身、パソコン通信とインターネットを併用しつつ、多分98年の正月、自分のHPを開設した頃から急激にネットにはまっていった。ちなみに最初は無料HPサービスの草分けであるジオシティーズのサービスを利用した。

当時はオーサリングソフトとしてホームページビルダーが人気だったが、私のPCはMACだったのでアドビのPageMillを使っていたと記憶する。

自己紹介。家族の紹介。関心ある趣味や時事問題についてのコラム。記事を更新するとトップページに「What's New」を点滅させ、カウンターの来訪者数や掲示板の書き込みに一喜一憂。やがて「さるさる日記」で日記形式の記事を書くようになり、リンク先のリンクページをたどり相互リンクを申請・・・当時を経験した方々には「あった、あった、あるある日記」という経緯をたどった。、

その後の流れは長くなるので割愛するが、このブログもその延長線上にあるわけだ。そしてここ一年ほど、その更新頻度は極度に低下している。

FacebookなどのSNSに関心が移行したことがその理由であることに間違いはない。しかし、もっと根本的なところで、ブログやホームページへの個人的な関心、そのエネルギーが低下しているのだ。

ネットの黎明期、その可能性はまさに無限に思えた。総体としては有限であっても、私という個人が触れられるのはそのほんのわずかだろうという確信があった。
立ち上がったばかりの新しいチームHPを発見すると、新しい出会いにワクワクした。
そしてその数は右肩上がりに増えていった。

だが、ある頃を境に、インターネットの世界が質的に変化していくのを感じるようになる。それは、4年から3年前、すなわちスマートホンが普及していった頃だ。
その前にもインターネットはどんどん変化していった。通信環境は革命的にフェーズを超え、光ファイバー通信やWi-Fi環境、そしてLTEが当たり前の世界になっていった。
PCは文字通り、パーソナルなもの。つまり一人が一台のスマホ(という小型コンピューター)を持つようになった。

職場のパソコンはほとんどビジネスに求められる機能とスペックの果てにたどり着き、なにか新しい機能を付与するための更新は姿を消した。メールのやりとりと見積書および営業資料の作成にはWindows XP以上のものは必要なくなったのだ。その倦怠期の中で、私用のパソコンはテレビ同様世帯単位の所有(共有)から個人単位の所有へと形態を変えた。携帯が形態を変えたのだ。

その結果何が起きたか。インターネットという広大な海のフロンティアは、個人の嗜好をいかに収集し分析し、お好みの商品をこれでもかと提示する広告の主戦場へと激変した。
検索ワード、メールの内容(無料メールの中身はスキャンされている)、位置情報、GPSの位置情報、それらを収集することを可能にした超巨大高速コンピューターによって、生活の領域そのものが狭められていくのである。
マスメディアとして大量消費を誘導するテレビから、より効率よく押し売りができるインターネットへと、広告メディアの主役が転換したのだ。雑誌はその補完物(セグメンテーションのツールとして)に成りはてつつある。

ネット上のつきあいも同様だ。無意識のうちに、人は自分のライフスタイル(地域や年収、学歴)に適合する「心地よい」関係のぬるま湯の中に浸るようになっていく。そしてそのベクトルは際限がない。

人生の可能性を広がるツールから、人生を管理し支配するツールへ。インターネットはその方向へ加速度を強めている。また「アラブの春」以降、国家は政治的目的からこれを制御する欲望を隠すことができなくなった。先進国においてもそれは変わらない。情報は名寄せされ、世紀遅れの「1984」が到来しつつある。

どうや人一倍ミーハーの私は、意識下にこうした事情を察知し、本能的に身を遠ざけようとしていたようだ。できるだけあたりさわりのない話題をSNSにアップし、みっともない自分の本性を、インターネットの世間(それは実世界よりも少々タチの悪い世間だが)から隠そうとしているのではないか?

もちろんインターネットには素晴らしい役割もある。親しいチームの試合経過をほぼリアルで追い、喜びや悔しさを共有することができる。遠く離れた友達とも交流し、そしてなにより、生活の糧を得る道具としても利用することができる。

しかし、そうした利点は利点として利用しつつ、「そうではない、何か」を欲する時が来たようだ。人は自分が知って欲しい情報(知られて困らない情報)しか発信しないし、そこだけでその人を知ったつもりになって、本当にそれで良いのだろうか。

ではどうすれば良いのか?明確な答えはまだ見つかっていない。
しかし、スマホの電源を切り、旅に出る。町に出る。酒場にくりだす。リアルに新しい人と出会い、会話をする。
そうした行為を「意識的に」やっていこうと思う。
書店に行っても、そこはビッグデータとマーケティングから生み出された本や雑誌に溢れている。でもやはり、並んでいる本を眺め、書店員のセレクトに触れることで、Amazonとは確実に違う一冊に出会うことができる。青臭いかもしれないが、新聞の書評欄に取り上げられた本は意地でも買わなかった頃の自分を思い出しながら。

飲食店については(特に福岡のそれは)、どこも店舗経営マニュアルと流行のレシピと安易なメニューでやや絶望的な気分になりがちだが、自分の直感だけに頼って飛び込みで新たな味と出会うための冒険を、月に何度かは復活させたいものだ。
へそ曲がりの職人と、とびきり愛想の良い店員と、他では決して食べることができない料理に出会うことが出来るかもしれない。(ラーメンは食べません)

なんだ、お前そんなこともやってなかったのか?という方もおられるだろうが、恥ずかしながらそうなのだ。私にとってインターネットは多くの出会いと発見も与えてくれたが、このまま続ければ、失われていくものが多すぎる予感がある。

そういうわけで、この「居酒屋じゅごん」も潮時だという思いが日に日に募ってきた。
ここはひとつ、思い切りよく区切りをつけ・・・・・・・・





近日中に「駄菓子屋じゅごん」としてパワーアップリニューアルすることとしました!
目指すは路地裏の社交場!
カテゴライズしたければ勝手にするがよい!
ターゲット広告を打ちたくば打て!
ビッグデータという統一球に、あの手この手で蟻の風穴を空けてやる!

「ネット的なものでない、なにか」との出会いを求めて。
それは、つまり、私なりの「ネット哲学」だ。


追伸:ソフトのことももうちょっと書くよ!


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